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2016年2月

2016年2月29日 (月)

宮崎日帰り出張(宮崎交通バス)

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 宮崎空港からはバスで日南市の油津駅近くまで向かう。本来であればJRで行きたいところだが時間が合わず、バスで向かうことになった。12時14分発のところ、バスは5分ほど遅れてやって来た。空港に発着するバスだが専用リムジンバスではなく一般の車両だ。空港発の時点ではほぼ満席となった。韓国人観光客のグループも一緒に乗りこんだが、彼女たちは途中の青島で下車していった。青島周辺は巨人のキャンプをやっていて、キャンプ見学者用の駐車場もあった。

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 途中、日南線の線路を渡ったりする。
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 バスは海岸線沿いの景色のいいところを走る。太平洋の穏やかな海と、ゴツゴツとした岩盤が展開する鬼の洗濯岩と呼ばれる地形が展開している。

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 空港から約1時間半ほどで油津駅前に到着した。一般の路線バスで乗りごこちは今一つで、仕事に入る前にかなり体力を消耗した感じだ。 

2016年2月28日 (日)

宮崎日帰り出張(宮崎空港)

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 私の席は後ろから2列目なので到着してもすぐには下りられない。すると、ちょうど右下で荷物の運び出し作業が始まった。担当者が手作業で取り出したものをコンベアに積んで、別の担当者が作業車に載せている。かなりの人力作業だ。こういう作業を間近で見るのは初めてだ。雨の日は水がかかってしまうだろう。

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 空港ロビーを出て、これから乗るバスの乗り場を先に確認しておく。宮崎交通の12時14分発の日南・飫肥行きで、2番乗り場から発車することが分かった。このバスはSuica、PASMOが使え、バスの発券所ではチャージもできるようだ。

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 ちょうど今の時期の宮崎はプロ野球のキャンプシーズンで、空港には各球団のユニフォームなどが飾られている。

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 お昼時で食事をしたいのだが、バスの発車まで30分弱という中途半端な時間でレストランに入って食事をするほどの時間はない。コンビニでもあればおにぎりかサンドイッチでも買ってそれを食べようと思っていたのだが、宮崎空港にはそういうものはなかった。簡単に食べられそうなものはないのかとお店をのぞくが、土産物ばかりで軽食になりそうなものはなかった。

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 空港内を探しまわるうちに1階のフレッシュジュースの販売コーナーに、わずかばかりのおにぎりとサンドイッチがあることが分かり、そこで食事を買い求めた。隣がイートインスペースで、同行のN氏はおにぎり、私はサンドイッチにした。このサンドイッチが880円もする高価なものだった。肉厚で少し固い肉だが、贅沢は言っていられない。

2016年2月27日 (土)

宮崎日帰り出張(ソラシドエア55便)

 ソラシドエア55便は機材の到着遅れのため、10分遅れでの出発となった。ボーイング737-800で私の席は後ろから2列目の窓側28Fとなっている。後部には空席も目立つが9割程度の搭乗率だ。離陸はD滑走路からのようで延々と地上を走る。2機前にはボーイング787が見える。

 離陸の様子は動画でお楽しみください。

 離陸すると右に急旋回し、右下に横浜ベイブリッジなどを眺め、高度を上げていき、雲の中に入った。

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 しばらくすると頭を雲の上に出した富士山が見えてきた。ちょうどこのあたりで機長のアナウンスがある。出発は10分遅れだが到着はほぼ定刻の見込みとのこと。

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 続いて中部国際空港や知多半島を右下に見ながら進む。ここから先は雲も切れ、下界がきれいに眺められる。

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 潮岬上空。このあと足摺岬南側から太平洋上を進む。

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 宮崎空港着陸の様子。11時30分定刻、海側から着陸した。

2016年2月26日 (金)

宮崎日帰り出張(羽田空港)

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 これから乗るのは羽田空港発9時40分のソラシドエア55便宮崎空港行きで、1時間半ほど待ち時間がある。今日の仕事は失敗の許されない重要な仕事なので、電車の事故等に備え早めに来たのだが、それにしても早く着きすぎたようだ。

 羽田空港を利用するのは昨年9月以来だが、自動チェックイン機が新型に更新されていた。従来より幅が3分の2ほどのコンパクトなものに変わっている。それとあわせて手荷物カウンターも改装され無人化になっていた。チケットをかざすと例の細長いタグが出てきて、自分で荷物に貼り付け、その荷物を機械に投入するのだ。これを「ANA BAGGAGE DROP(自動手荷物預け機)」と呼ぶらしい。スーツケースや普通のバッグなど、複雑な形状でないものはこれで預けられるようだ。

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 そんな様子を観察したり、空港の中をぶらぶらしたりしているとあっという間に時間が立ち、同行のN氏も合流し、搭乗口へと向かう。搭乗口は一番端に近い54番で動く歩道を何台も乗り継ぐ。

 すると我々の脇をゴルフ場で見かけるような電動カートが追い越していった。体の不自由な人が無料で利用できるようで、こういうものがあるとは知らなかった。

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 ソラシドエアは昨年初めて乗ったが若草色の機体や機内配色が好印象で、落ち着いた印象を与えてくれる。これから乗るのはくまモンの図柄が入った「くまモンジェット」だ。

2016年2月25日 (木)

宮崎日帰り出張(東京モノレール)

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 急な仕事が入り、どうしても宮崎県日南市に住むお取引先を訪問する必要が生じました。会社で複数名の候補が選定されたのですが、乗り物に詳しいN氏と私に白羽の矢が立ち、満場一致で二人が宮崎出張に行くことになりました。これから数回に渡り、その時の様子をお伝えします。

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 2月25日朝大宮発6時32分の京浜東北線でスタート。この時間帯は座って乗車できるのでありがたい。7時30分に浜松町に着き、7時33分発の東京モノレールに乗り換える。モノレールのホームは混雑していて、整列していた行列の最後部に並ぶ。空港まで座れないとあきらめて車内に入ると、なんと運転席後部の二人がけの席が空いているではないか。東京モノレールの車両は運転席真後ろの席が前向きの二人がけになっている。そこに座れたのだ。空港までの25分間かぶりつきを楽しめるわけで、これは幸先がいい。

 最初の停車駅天王洲アイルでかなりの客が下り、その後も順次下車していく。東京モノレールは空港利用客だけでなく、途中にある駅までの通勤客の需要も多いようだ。

 昭和島駅はモノレールでは珍しく2面4線のホームになっていて、ここで快速の通過待ちが行われるが、この時間帯は各駅停車のみの運行となっている。

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 空港の地下を走り、7時58分羽田空港第2ビルに到着した。ここまで乗ってきたのは1両に数人だった。

2016年2月24日 (水)

さよならAE100形記念ツアー4

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 宗吾参道駅に12時07分に到着し、いよいよ宗吾車両基地に進入します。これが目的でこのツアーに参加したのです。スピードは非常にゆっくりしています。

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 車両基地は本線に接して存在しているので、乗りでは少なかったです。おそらく300mほど進んで列車は停車しました。

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 列車が到着し、1号車の客から順番に下車していきます。車内アナウンスから推察すると、予約の早い人から順に1号車から割り振られていたようです。5号車の私は列車から下りるまで20分くらい待ちました。

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 列車から下りると順にAE車の撮影会になります。それが終わると、列がなかなか進まず不思議に思っていると物販の順番待ちになっていました。1号車の客から順に購入できる仕組みになっています。まだ1号車の客が物販ブースで買い物をしています。これでは5号車の順番になるまでに1時間くらいは掛かりそうです。物販のリストは今朝渡されていましたが、AE100形引退記念乗車券のほか、方向幕、トイレの錠前、テーブル、側窓カーテンなどとともに、トイレの汚物入れまで販売されていました。

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 私は物販には興味がないので、構内に展示されている旧車両の撮影をして、会場を後にしました。一応流れ解散ということになっていますが、ほとんどの客は物販に並んでいて、私のように途中退出した人はほとんど見かけませんでした。出口を出る時に係員に「一度出るともう入れません」と脅かされます。

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 今回のAE100型引退記念ツアーは小岩の渡り線や東成田駅旧ホームに入れたりして、予想外の収穫がありました。宗吾車両基地への線は短くて、ちょっと物足りなかったですが、それでも普段乗れない区間に乗れて満足でした。

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 一方、車両基地に入った後は半ば強制的に物販コーナーに誘導され、購入する人は長時間待たされる仕組みで、このあたりは改善の余地があるでしょう。

 車両基地から宗吾参道駅までは徒歩5分ほどでした。





2016年2月23日 (火)

さよならAE100形記念ツアー3

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 東成田駅での撮影タイムを楽しんだ後、列車に戻ります。ここから座席が回転されて進行方向が逆になるとともに、隣の席の人と窓側と通路側を交代することになっています。私は今まで通路側だったので、ここからは窓側になりました。列車に乗り込む際にはお弁当を手渡されます。お弁当は専用の掛け紙が付いた万葉軒のお弁当です。しかし、この掛け紙とは別に、朝渡された資料の中に折り目もない真新しい専用掛け紙が付いているので、お弁当に付いていた掛け紙をコレクション用にする必要はありません。

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 エビも入ったなかなかの豪華弁当です。

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 お弁当を食べるうちに発車時刻となり東成田駅を11時29分に出発します。成田駅には35分に着き、ここで成田空港駅に向かうため、再び進行方向を変えます。39分に反対方向にバックし、成田空港駅へと向かいます。

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 第2ターミナルビルを通過し、47分に成田空港駅着。ここで6分停車した後、11時53分宗吾車両基地へと向けて最後の走りとなります。

2016年2月22日 (月)

さよならAE100形記念ツアー2

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 クイズコーナーも終わり、列車は京成本線を進み、成田で2分時間調整した後、10時56分かつての成田空港駅である東成田駅に着きました。しかも入線したのが今は使われていないホームでした。ここで約30分間の撮影タイムになります。

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 駅名票は成田空港駅のままでした。

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 普段は使われていないので、ホームの照明も少なく薄暗い雰囲気です。

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 こちらはかつての改札口付近の様子。自動改札でない改札口のボックスも残っています。うまく保存すれば鉄道遺産になるでしょう。

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 現改札口付近には京成スカイライナーの昔の宣伝用ポスターが何枚も飾られていました。このイベントのためなのか、それとも常時掲示されているのか分かりませんが、おそらく今から20年くらい前のものと思われました。

2016年2月21日 (日)

さよならAE100形記念ツアー1

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 2代目の京成スカイライナーAE100形が引退することになり、そのラストラン運転が行われることになりました。2月21日と28日の2回に渡って行われますが、私は21日の回に参加しました。このラストラン運転はそれだけでは私の興味を引かないのですが、宗吾車両基地の中まで入る特別な列車なので、そちらを目当てで参加しました。各回350名の募集で、車両の混み具合からするとたぶん満員御礼だと思います。

 この列車は京成上野駅を9時01分に発車し、宗吾車両基地に12時07分に着くので、どういうルートを通るのか気になっていたのですが、受付手続きを済ませ、配布物を見ると本日のルートが分かりました。なんと、小岩、八広、東成田、成田、成田空港の5ヶ所でスイッチバックを繰り返し、宗吾車両基地まで行くようです。しかも東成田では撮影タイムが用意されていました。

 まず、列車は8時50分回送で入線します。ヘッドライトがリトラクタブルになっていて鉄道車両では珍しいタイプです。

 上野を9時01分に発車し、案内放送の後に記念品が配られました。クリアファイル、乗車証明書、DVD、AE100形のガイドブック(1990年デビュー時の仕様書のような冊子)などです。クリアファイルの中にはこの列車の仕業表が入っていて、主要駅の発着時間が10秒単位で示されていて、これは役に立ちそうです。

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 (AE100形にはシートポケットがないのでちょっと不便です)

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 9時20分、まず小岩駅下り3番線に停車します。8分間停車し、9時28分バックで高砂方にあるポイントを渡り、上り線に入ります。運転士が車内を通行した様子がないので両方の運転台に運転士がいたのでしょうか。

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 その後、押上線に入ります。押上線にスカイライナーが入るのは初めてでしょう。どこで情報を仕入れたのか、沿線には多くの撮り鉄が待機しています。9時40分、八広駅の中線2番線に入り、折り返しのため10分ほど待ち合わせになります。

 9時50分、八広駅を発車するとクイズコーナーになりました。AE100形に関するカルトなクイズで、全問正解者には各車両5人分賞品がもらえるようです。問題は全部で6問くらいありましたが、私は半分くらいしかできませんでしたが、全問正解者も私の車両で半分くらいはいました。賞品は最新のスカイライナーのプラレールアドバンスのようでした。

 

2016年2月20日 (土)

ウルトラマンスタンプラリーピンバッジコンプリート

ウルトラマンスタンプラリーピンバッジコンプリート
2月19日の朝はウルトラマンスタンプラリーの最後のピンバッジの引き換え日です。例によっていつもより早い埼京線で新宿駅に着きます。またまた店の外にまで行列が広がっています。エビスビールを2本取って最後尾に並び、無事ピンバッジをゲットできました。これでピンバッジを5種類集められました。一緒に並んだ人たちも皆満足そうな顔をしていたのでコンプリートしたのでしょう。

ウルトラマンエースやウルトラマンタロウはほとんど見ていなかったので、バッジを見ても正直なところ特に感動はないのですが、それでも全部そろうとうれしいものです。来年はもっとウルトラマンやウルトラセブンに特化したスタンプラリーにしてもらいたいというのは昭和の男のつぶやきです。

2016年2月19日 (金)

やっと来た東京駅開業100周年記念Suica

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 ようやく届いた東京駅開業100周年記念Suicaです。2014年12月が100周年ですが、102年目になっての到着です。当初はわざわざ買いに行くつもりもなかったのですが、例の騒動のおかげで誰でも買えることになって、私もこのように手に入れることができたので、遅いことに文句を言ってもバチが当たるでしょう。チャージされた1500円分を使用したら、コレクションとして大切に保管するつもりです。

2016年2月18日 (木)

MAXたにがわ475号

MAXたにがわ475号
昨日、東京駅近くの新丸ビルで飲み会があり帰りが遅くなったので、最終の新幹線で大宮に帰りました。23時ちょうど発のMAXたにがわ475号です。E4系を2本つなげた長い編成で、客は少なくゆったりと帰れました。この時間、在来線で帰るとかなり混んでいるので、速くて快適な新幹線は魅力的です。しかし寝過ごすと大変なことになるので、その点は要注意です。

2016年2月17日 (水)

東京駅とウルトラマン

東京駅とウルトラマン
東京駅グランルーフ2階にウルトラマンスタンプラリーに関連したイベントスペースがあり、そこでウルトラマンと一緒に写真を撮れるようになっています。実際には画像の右側が床で、床に立って撮った写真を回転させるとあたかもウルトラマンと一緒に飛んでいるような写真が撮れるのです。円谷プロダクションならではの「特撮」を楽しめるようになっています。

2016年2月16日 (火)

ウルトラマンスタンプラリー全駅制覇

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 先月スタートしたウルトラマンスタンプラリー全駅のスタンプをゲットしてきました。当初はピンバッジ狙いで、スタンプを全部押そうとは思っていなかったのですが、出先でスタンプに行列している様子を見かけるにつれ、次第に全部押してやろうという気持ちが高まってきました。

 今回のスタンプラリーのエリアは基本的には都区内なのですが、一部千葉県と茨城県が含まれていて、それとともに東京モノレールの駅も2つ含まれているので、都区内パスと休日お出かけパスを利用して集めてきました。駅の階段の昇り降りなども頻繁なので結構いい運動になりました。

 スタンプコーナーはたいてい複数の人が順番待ちをしていてウルトラマンの人気のほどが分かります。しかもスタンプ帳を複数持っている人が大半で、順番が回ってくるのに時間がかかります。一人で複数のスタンプ帳を使用してはいけないことになっているのですが、場所によっては「何冊も押す人は列の後ろに並び直してください」と書かれているところもあり、本末転倒です。

 それはともかく50年も前のヒーローや怪獣に再び会えて、子供のころに戻った懐かしい感じになりました。

 

2016年2月15日 (月)

東武アーバンパークラインで急行運転開始

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 来月26日から東武アーバンパークラインの大宮-春日部間で急行運転が行われます。停車駅は岩槻のみで、所要時間は7分短縮され、最速14分とのことです。運転は日中のみです。新聞記事では明らかではないですが、緩急接続はおそらく岩槻駅でしょう。今後、急行運転区間が延伸されるかどうかは実績次第でしょうが、仮に船橋まで延伸されるとすると武蔵野線の強力なライバルになるでしょう。

2016年2月14日 (日)

西武安比奈線廃止が決定

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 以前ご紹介したことがあり、長らく休止線であった西武安比奈線 が正式に廃線になりました。まだプレスリリースはないようですが、朝日新聞の埼玉版には記事がありました。今までは休止中という扱いだったので線路や架線柱などが残されていましたが、今回の廃止に伴い撤去されるようです。休止から50年以上経ちますが、昨年歩いた時には線路や橋梁が意外と手入れよく保存されていたのに驚きましたが、やはり復活はなく廃線になりました。

 ところで新聞記事によると土地の取得費など126億円が特別損失として計上されたとのことですが、今から50年以上も前の用地取得費などがそんなにかかったとは信じられません。他の損失と合算して計上された西武鉄道の特別損失の合計が126億円だったのではないでしょうか。新聞記事は結構誤りが多いので注意が必要です。

2016年2月13日 (土)

日本一長い駅のエスカレーター

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 駅にあるエスカレーターで日本一長いものが大井町駅にあります。JRの大井町駅からりんかい線の大井町駅に向かうエスカレーターがそれです。
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 実際に乗ってみると、これくらいのエスカレーターはどこにでもありそうで最長という感じはしません。東京駅や新御茶ノ水駅にあるエスカレーターのほうが長いような気もします。

 長さ44mで所要時間は1分30秒ほどかかります。エスカレーターの斜度はだいたい30度なので高低差は22mになる計算で、ビルの5階分くらいに相当します。駅改札内ではなく連絡通路にあるので誰でも無料で乗れるエスカレーターでした。




2016年2月12日 (金)

駅弁むかし物語

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 旧新橋停車場の鉄道歴史展示室で「駅弁むかし物語」という企画展が3月21日までの予定で開催されています。

 駅弁の始まりは1885年の宇都宮とされていますが諸説あるようで、駅周辺の旅館や食堂が駅の求めに応じて自然発生的に出現したようです。その後許可状などが発行されるようになり、売り子の服装などの決まりもあったようです。

 古い駅弁の容器、掛け紙、汽車土瓶など主に昭和中期までの資料が展示されていて、最近はやりの人気駅弁の展示はありません。

 無料の企画展ですが資料も充実しているので、みなさまもぜひ一度訪問されてはどうでしょうか。

2016年2月11日 (木)

ウルトラマンスタンプラリー(TAC)

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昨日ウルトラマンスタンプラリーの4つ目のピンバッジをゲットしました。この日もいつもより早めの電車で出勤し、新宿駅のニューデイズに立ち寄りました。店の外まで行列しているので、買うものを持っていったん外に出るので、まるで万引きをしているような感じです。

2016年2月10日 (水)

受験の思い出12

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 私立大学の受験を終え、体調もようやく回復し、1982年3月4日、5日の2日間、国立大学の入学試験となりました。最寄り駅は国立駅ですが、当時はこの三角屋根の特徴的な建物に気付く余裕は全くありませんでした。記憶に残っているのは学校案内には駅から大学まで徒歩10分とあったのに5分ほどで着いたことくらいです。この駅舎は中央線の高架化に伴ない、今から10年ほど前に取り壊されてしまったのが惜しまれます。

 大学には武蔵野線経由で国立に向かいました。武蔵野線は中央線のお下がりの101系に難燃化対策を施した101系1000番代車が投入されていました。当時は6両編成で運転本数も今より大幅に少なかったです。一方、中央線は101系、103系、201系の3種類の車両が運転されていて格の違いを感じました。

 入学試験の手応えは何とも言えませんが、自分の印象では数学が思いの外よくできたような感じがしました。入学試験後合格発表までの間、私は当時発売されたばかりの「青春18のびのびきっぷ」を利用して旅に出ました。このきっぷを利用して普通列車だけで長崎まで行ってきました。

 旅から戻り、3月20日が合格発表日です。再び武蔵野線に乗り、学校に向かいます。こういう合格発表は、試験結果に自信のある人は発表前から現場に行って待っているのでしょうが、私は発表時刻を過ぎて30分くらいしてから見に行きました。

 当時は携帯電話などない時代なので大学の正門付近には臨時の電話機が多数設置され、既に合否が判明して自宅などに連絡を取っている人が見えます。私はその脇を抜けて掲示板を見に行きました。

 今まで私が経験した合格掲示板は受験番号のみの表示だったのですが、ここのは番号の他に名前がカタカナで表示されていました。掲示板を見た瞬間に私の番号と名前が目に飛び込んできました。さっそく特設電話で家に電話したのは言うまでもありません。

2016年2月 9日 (火)

受験の思い出11

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 1年間の浪人生活で受験勉強に励んだ私は、まず1982年1月に共通一次試験を受けました。幸いにも自分の母校での受験となり、落ち着いた雰囲気で受けることができました。家に帰ると合格したわけでもないのに豪華なケーキが用意されていました。一年の浪人生活の効果は顕著で去年は足元にも及ばなかった第一志望大学の足切りラインは軽くクリア、現代国語は満点でした。

 しかし、この油断がいけなかったのでしょうか。私立大学の試験の直前に私は高熱を発しました。医者で薬はもらったものの熱が下がらず、そのままの状態で中央大学を受験しました。去年は何事もなく登れたヒルトップ隧道も、今年は途中でフラフラになり、坂を登り切ることができないくらい体力を消耗しました。何とかトンネルを抜けることはできましたが、去年は絶景に感じた多摩丘陵を見る余裕もありません。試験の途中ではお腹が痛くなり、冷や汗もタラタラ、最後の最後で体調を崩し、この1年間の苦労は何だったのだろうかと試験の最中で悲しくなりました。母が作ってくれたお弁当も全部は食べきれませんでした。

 その後、明治大学、慶応大学、早稲田大学などを受験しました。だんだんに体調は回復していったものの本調子ではありませんでした。しかし、幸いにも一番体調の悪い時に苦労して受けた中央大学は合格、明治大学も合格、慶応大学は一次筆記試験は合格、二次面接で不合格、早稲田大学は不合格という結果になりました。

 慶応大学は二次試験が面接で会場は日吉校舎でした。慶応の面接試験ということで、それなりの格好で臨まないと試験官に好印象を与えられないと考えた私は、直前に急いでブレザースーツを買ってもらい、それを着込んで面接に臨みました。しかし周りの受験生を見ると大半は全くの普段着でした。当たり前ですが服装と試験の結果はまったく関係なく、私は二次面接で不合格となりました。ただ面接のできが悪く不合格となったわけではなく、筆記試験の結果と面接の総合点で合否が判定されたようで、ボーダーライン上にあったのは間違いないはずです。

 それにしても1年前は手も足も出なかった入試でそれなりの結果を残すことができました。残すは3月4日から始まる国立大学の入試です。

2016年2月 8日 (月)

受験の思い出10

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 1981年4月に予備校に入学し、浪人生活が始まりました。予備校での1年間は私の人生の中でも最も勉強した時期です。予備校は御茶ノ水駅聖橋口から徒歩2分ほどのところで、日大病院の裏にありました。校舎は4階建てで、一つの教室に250人ほどの生徒が入り、狭い机に4人がけで隣の人とくっつくようにして授業を受けていました。今振り返るとよくそんな狭い机で勉強できたと思いますが、当時はそれが当たり前だと思っていました。

 授業で印象に残っているのは、英文解釈の伊藤和夫講師と現代国語の藤田修一講師でした。伊藤師は主語・述語動詞、修飾・非修飾の関係を把握しながら、英文を頭から読み進み、ピリオドのところでその英文に対する理解が完結する英文解釈手法で、予習の時には英文を全文和訳することを生徒に求めていました。頭では分かっていることが文章にしてみると日本語としてうまく表現できないことに気付き、日本語の勉強にもなりました。

 また現代国語の藤田師は文章の「イイタイコト」をつかむため、A、Aダッシュ、Bなどの記号を使い、筆者の主張を解き明かしていく手法で、またチョークを持つ右手が汚れないようにいつも白い手袋をはめているおしゃれな先生でもありました。

 電車通学も初めて経験で楽しかったです。当時は京浜東北線は103系、東北線・高崎線は115系、総武線各駅停車は101系で、国鉄鋼製車の時代でした。私鉄では空気バネ車両の導入が以前から進んでいましたが、国鉄はコイルばね、窓も私鉄は1段下降窓、国鉄は2段上昇窓でかなり見劣りがしましたが、それまでが自転車通学でしたので電車に乗れるだけでも楽しかったものです。

 時おり授業が休講になったりすると、御茶ノ水周辺の地下鉄を1時間位で一回りしてくることもありました。受験一辺倒では長い受験生活を乗り越えられないと勝手に自分に言い訳して、乗り歩きを楽しんでいたのです。

 高校時代は母にお弁当を作ってもらっていましたが、予備校に通うようになってからは昼食は外食でした。高校の時は月5000円のおこづかいでしたが、昼食代込で2万円をもらうようになりました。基本的には予備校の地下の食堂で食べることが多かったのですが、予備校の周辺で食べることもあり、大人になったような気がしました。

 

 

2016年2月 7日 (日)

受験の思い出9

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 名古屋大学の合格発表はまだでしたが不合格は確実だったので、私は名古屋から帰った数日後予備校の願書を取りに都内に出ました。まず気分転換で新宿の名画座で映画を見ました。石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」です。なぜこれを選んだのかは記憶がありませんが、アクション映画を見てすっきりしたいという気持ちがあったのでしょうか。

 都営新宿線新宿三丁目駅から地下鉄で小川町に行きます。都営新宿線はこの時が初乗りです。小川町駅からは坂道を上って、御茶ノ水の駿台予備学校で願書をもらいました。

 名古屋大学の合格発表は確か3月17日で、発表時間を過ぎても電話はかかってきません。発表時間から1時間以上経過してからようやく電話がかかってきましたが、結果は不合格でした。おそらく合格者を優先して電話したので後回しにされたのでしょう。

 予備校の試験は3月25日くらいにあったと思います。国立大学の試験の合格発表が全て終わった直後です。幸いにも予備校まで不合格となることはなく、4月から駿台予備学校の文Ⅱクラスに通うことになりました。

 

2016年2月 6日 (土)

受験の思い出8

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 当日の朝、ホテルから地下鉄で本山駅に至り、試験に臨みます。私の高校からこの大学を受けたのは私一人かと思っていたら、試験の休み時間に同じクラスのO君に声を掛けられ、びっくりしました。彼は高校の事務室の学割申請書に、私が名古屋までの申請をしていたのを見ていて、それで私が名古屋大学を受験することを知っていたようです。わざわざ各受験室を巡って私を探し当ててくれたようです。彼は昨日は本山駅の隣の覚王山駅近くの旅館に宿泊したとのことでした。

 試験の手応えは芳しいものではありませんでした。試験が終り、O君と地下鉄で帰ります。彼はこのまま新幹線で帰るのですが、私は東京行の夜行普通列車に乗る予定にしていました。親に迷惑をかけて名古屋まで受験旅行に行かせてもらったのだから少しでも交通費を節約したいという思いと、この際だから東海道線の普通夜行列車に乗ってみたいという思いが入り混じった複雑な心境でした。

 我々は栄で分かれ、私は名古屋城見物に向かいました。ところが既に当日の営業時間が終了していて、シャチホコを拝むことはできませんでした。残念な思いで名古屋駅に向かいます。私が乗る上り東京行普通列車は名古屋駅発が21時26分なので、まだ4時間ほど時間があります。

 名古屋駅の地下街などをあてもなく散策します。トヨタのショールームがあり、ちょうど発売されたばかりの新型高級スポーツカー「ソアラ」が展示されていました。この車種はその後若者に人気の出る車となりましたが、今は生産されていません。名古屋の地下街のどこかで食事をしたはずですが記憶はなく、かなり時間が余っていたのでさらに喫茶店に入り、クリームソーダを注文しました。

 ようやく発車時刻となり、急行タイプの165系車両に乗り込みます。オールボックスシートですが、普通列車用の113系などよりはシート間隔も広く快適でした。東京駅には朝の4時40分に到着です。京浜東北線に乗り換え、北浦和駅に着きますが、まだ早朝でバスがなく、駅から自宅までとぼとぼと小一時間ほど歩いて帰りました。

 その日、3月5日は妹の県立高校入試の合格発表日でもありました。私が受験明けの夜行帰りで疲れた状態で家で待機していると、妹は無事合格し、うれしさのあまり泣きながら帰ってきました。浪人がほぼ決まって落胆している私と、高校に合格した妹と、一家のなかで正反対の事象が展開していました。

2016年2月 5日 (金)

受験の思い出7

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 校舎の下見や合格電話の手続きを終えて、今夜の宿泊場所に向かいました。東山線の伏見駅近くのホテルサンルートで、父が予約してくれました。このホテルは今はこの場所にはないようです。この当時のビジネスホテルチェーンは、サンルートや東急イン(東横インではない)、法華クラブなどが大手でした。ビジネスホテルタイプのホテルに泊まるのはこの時が3度目で緊張しながらチェックインします。翌日の朝食と昼のお弁当も合わせて予約しました。

 ホテルに着いたのは午後4時過ぎで、テレビをつけると刑事ドラマの「特捜最前線」が放送されていました。当時の私は刑事もののドラマが好きで、「太陽にほえろ」「大都会」「明日の刑事」「非情のライセンス」「新幹線公安官」などをよく見ていました。慣れない地で見慣れた刑事ドラマを見て、ホッと心が和みました。

 その夜は栄まで徒歩で出て、地下街で食事をしました。地下街を一周りし、その中で1軒の定食屋のような店を見つけ、そこでハンバーグ定食を食べました。ナイフやフォークはなく、箸で食べるアットホームな感じの店でした。

 翌朝はホテルのレストランで食事です。私のような受験生が大勢います。食事のあとに昼のお弁当を受け取ります。当時はコンビニもまだ出始めの時代で、手軽にお弁当を買えるところは少なかったので、ホテルで用意してくれたのは助かりました。

2016年2月 4日 (木)

受験の思い出6

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名古屋駅に降り立った私はその足で大学の下見に向かうため、市営地下鉄東山線に初乗します。乗り場は時刻表の駅構内図で予習していたので迷わずに乗車できました。

東山線は名古屋の地下鉄では一番古く、黄色の鋼製のガッチリした車体で、大きさも東京の銀座線に似た感じでこぶりな車両でした。その地下鉄で本山駅まで進みます。今は名城線の名古屋大学駅がありますが、当時の名城線は大曽根までで環状運転は行っていませんでした。本山駅から15分ほど歩いて大学に到着です。さっそく試験会場を下見します。記憶ははっきりありませんが、殺風景な鉄筋コンクリートの建物しかなかったような感じです。

 学校の下見とあわせて、「合格電話」の申し込みも行いました。今は合格発表は大学のホームページや郵送で分かりますが、当時は実際に学校の合格掲示板を見に行かなければ合否が分からない仕組みでした。したがってたとえ遠隔地でも発表当日には再び学校に出向かなければならないのです。しかし、往復の交通費もバカにならないので、学生アルバイトなどが運営する「合格電話」に申し込んで、発表当日に合否の結果を電話で知らせてくれるサービスがあったのです。

 そういうサービスの勧誘者が大学構内に幾人もたむろしていて、「どちらから来ましたか?」とか「何学部を受験ですか?」とか声をかけながら近づいてきては「客引き」を行っています。私もそのサービスを申し込みました。確か1000円ほどの手数料を支払ったと思います。大学構内で金を取って運営していますが、大学公認の組織なのか、単に黙認されているだけなのか分からず、金だけぼったくって雲隠れする輩もいないとも限らないので、人によってはリスクヘッジのため複数申し込みをすることもあったようです。私は受験前に合否が半ば決定していたような状況だったので1ヶ所しか申し込みませんでした。

2016年2月 3日 (水)

受験の思い出5

 私立大学の受験に失敗したものの、まだ国立大学の受験があるので、落ち込んでいるわけには行きません。第一志望の大学は共通一次試験の得点で足切りラインが設定され、私の点数では二次試験を受けることができませんでした。私はやむなく足切りラインが設定されていなかった名古屋大学を受験することにしました。

 高校で学割証を発行してもらい、北浦和駅で名古屋までの往復乗車券を購入しました。名古屋までの片道硬券乗車券に、「往復」のゴム印を押したものでした。今ならマルス券を発行してもらうところですが、当時の北浦和駅にはみどりの窓口がなかったのです。

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 試験日の前日、1981年3月3日東京駅11時48分発のひかり171号で名古屋に向かいました。0系新幹線です。当時は0系しかなかったので、単に新幹線と呼ぶだけで、0系という言い方はしていませんでした。私は自由席車の窓側A席に座りました。東京駅を出て田町駅を過ぎると、新幹線は父の勤めていた会社の脇を通ります。進行方向左側に建つ白いビルでした。

 当時はまだ新幹線品川駅はなく、在来線の品川駅付近を過ぎ、しばらく進むと横須賀線と平行して走り出しました。以前は東海道線と横須賀線は線路を共用していたのですが、1980年10月から横須賀線は通称品鶴線経由となり総武線と直通運転を開始したのです。そういう知識は持っていたのですが、品鶴線が新幹線の隣を走っているとは知りませんでした。

 私の隣のB席、C席には二人連れの会社員が座っていましたが、食堂車の営業が始まると連れ立って食事に行きました。この新幹線は新大阪止まりですが、こんな短時間でも食堂車の営業を行っていました。私は自分が食事をどうしたのかは記憶がありません。

 車内では英文解釈の参考書を読み明日の受験に備えましたが、車窓が気になってしっかり勉強できたかどうかは自信がありません。13時49分、定刻に名古屋に到着しました。名古屋に下りるのは初めてでした。

2016年2月 2日 (火)

ウルトラマンスタンプラリーコレクション(MAT)

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 2月1日はウルトラマンスタンプラリーの帰ってきたウルトラマンのMATのピンバッジがもらえる日です。引き換え場所である新宿駅のニューデイズは、前回は店の中を1周するほどの行列だったので、今回は更に早く7時10分頃に訪れました。さすがに店内の行列は前回ほどではなく、すんなりと買えました。しかし、ピンバッジを引き換えているのは、前回と同じく私と似通った年齢の男性ばかりでした。私は今回もエビスビール2本を購入し、ピンバッジを手に入れました。店舗には誘導係りの店員が2名も配置され、万全を期していました。これからも人気の凄さがわかります。

2016年2月 1日 (月)

受験の思い出4

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 浦和高校では3年生は2月になると授業もなくなり、受験に突入します。したがって学校に行く必要がなくなるのですが、私は自宅だとだらけて勉強しなくなるたちなので、2月になっても学校の図書館に通い、そこで勉強をしていました。

 まず最初に受験したのが中央大学法学部です。その数年前にできた多摩キャンパスでの受験です。新宿から京王線で高幡不動経由で多摩動物公園駅に至り、そこから徒歩で学校に向かいます。今は多摩都市モノレールの中央大学・明星大学という駅があるので、学生はその駅を利用するのでしょうが、1981年のことですからまだモノレールはありません。

 多摩動物公園は小学校の遠足などで来たところで懐かしかったはずですが、受験生にはそんな思い出に浸っている余裕はありません。細い山道を黙々と進み、ヒルトップ隧道というトンネルを抜けると学校に到着です。学生食堂などがある建物を抜けると、そこには多摩丘陵が一面に広がる絶景が展開していました。学校の施設も新しく、山道を苦労して登ってきた先に近未来都市が展開していて私は感動しました。学校が都心から遠いので試験開始は遅く、午前1科目、午後2科目という構成でした。

 その数日後に受けたのが早稲田大学法学部です。高田馬場から東西線で1駅の早稲田駅で下車です。学校に入ると、中央大学のキャンパスとは違い、古めかしい建物が数多く並び、建物の重厚さを感じました。

 試験の結果はどちらも不合格でした。浦和高校は県内一の進学校ですが、特に受験指導があるわけでもなく、皆独学で勉強し、その結果現役で合格するのは全体の3分の1くらいで、その他はみんな浪人する習わしでした。国立大学の試験は3月4日から予定されていましたが、私立2校に落ちた私は受験する前から浪人が確定したようなものでした。

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