受験の思い出2
幼稚園に無事潜り込んだ私は、小学校は地元の世田谷区立の小学校に入学したので、小学校受験の経験はありませんでした。昭和40年代の東京都は学校群制度の影響で、公立高校のレベル低下が顕著で、私の両親はこのまま都内に住んでいては子供をまともな公立高校に通わすことができないと考え、公立高校のレベルが比較的高かった埼玉県に引っ越し、私を浦和高校に私を入れようと画策しました。
そのため私が小学校6年の時、世田谷の団地を売って、浦和市に引っ越しました。330万円で買った団地を850万円で売り、それを頭金にして1000万円のローンを組んで1700万円の一戸建てを買いました。わずか8年で団地の価値は2.5倍に膨れ上がり、父は今度は35年ローンではなく10年ローンで新しい家を買いました。当時はオイルショック直後でしたが、まだまだ景気が良い時代だったのです。
ここまでは良かったのですが、引っ越したのは浦和と言っても田舎でまわりは田んぼだらけ、転校した小学校には古ぼけた二宮金次郎の銅像があり、地元の中学校からは浦高に進学した人は誰もいないというありさまで、両親は取り返しの付かないことをしたと後悔したようです。
そんなこともあってか私は父の勧めで中学受験をすることになりました。受験したのは埼玉大学附属中と開成中学です。
埼玉大学付属中の受験の時はバスで浦和駅に向かいました。校舎は鉄筋コンクリートの低層で落ち着いた雰囲気でした。数日前に雪が降り、正門から校舎に至る通路で、その雪で私は滑って尻もちを突いてしまいました。試験は午前中に4教科、午後は体育でしたが、受験会場で滑るという失態を演じたので当然のことながら不合格となりました。今振り返ると、受験生が「滑る」という縁起の悪い事態にならないように学校関係者はしっかりと雪かきをすべきだったと思うのですが、そういう時代でもなかったようです。
その1週間位あとに今度は開成中学を受けました。まだ開業して3年ほどの西日暮里駅近くに学校はありました。それまでは田端か日暮里から歩くしかなかったはずですが、千代田線の開業とともに駅ができ、開成の利便性は増しました。試験は2日間で初日は学科試験、翌日は面接試験でした。行きは父親が同行し、帰りは一人で帰ってきました。京浜東北線は当時103系電車で、私は席に座らず、ドアの脇に立ってずっと景色を見ながら帰ってきました。
私は一応クラスではかなり勉強ができる部類でしたが、それでも塾にも通ったこともなく、父親から与えられた問題集を各科目1冊やった程度では、開成中に合格するわけもなく、こちらも不合格となりました。父も私が合格するとは思っていなかったようで、世の中には自分より頭のいいやつが大勢いることを知ってもらいたかったというようなことを言っていました。この不合格は私に取っては、上には上がいるということを実感でき、いい経験となりました。
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