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京成の成田空港駅は、京成本線経由の列車とスカイアクセス線経由の列車とはホームが違います。運賃が違うのでホームを分けているのです。こういう場合はホームを隣り合わせに配置するのが普通ですが、ここではスペースの関係でホームを前後に分けて使用しています。すなわち、ホームの京成上野よりを本線経由の列車が使用し、その反対側をスカイアクセス線経由の列車が使用しているのです。それぞれ、8両編成の列車が停車できるので、非常に長いホームになっています。その境目には、このような立ち入り禁止の柵があります。奥に入った列車はあとから出発しなければならないので、ダイヤ作成上のネックが大きそうです。空港第2ビル駅も同様な構造になっています。
成田スカイアクセス線の成田湯川駅です。今回新しく開業した駅です。コンクリート打ちっぱなしの駅です。乗降客はそれほど多くないと思われますが、大型の造りになっています。ホームは中間に通過線がある相対式2面4線で、新幹線の途中駅で見かけるタイプです。下にJR成田線が走っていますが、成田線には駅はありません。
この駅ではスカイライナーが最高速度で通過していくのが間近で見られます。車両が小型のため風圧は感じませんが、さすがに速いです。それ狙いの撮りテツがたくさんいます。
緑2灯が点灯している信号機が見えますが、これが160km/h運転が可能なことを示すGG信号です。列車が近づく直前に緑1灯から緑2灯に切り替わるので、これを見ていると列車の接近が分かります。
7月17日開業した成田スカイアクセスに乗車してきました。下り列車は混雑が予想されたので、私は成田空港発9時59分のスカイライナー6号に乗車しました。感動的な速さでした。
空港第2ビル駅を発車すると、いきなり最高速度まで一気に加速します。ちょうど、隣の線路をJRの総武線快速電車が併走していましたが、あっという間に引き離しました。
GPSレシーバーでも158km/hを記録しました。走行中の振動はほとんど感じません。ただし、全区間で最高時速160km/hを出すのではなく、空港第2ビル駅から印旛日本医大までの間だけで、それ以外は130km/hです。それでも速いです。
車両の入り口には液晶ディスプレイがあって、先頭車両から見える画像が表示されています。名鉄の特急でも見かけたサービスですが、うれしいサービスです。
成田空港駅から京成高砂駅までわずか30分で走りました。そこから先はカーブも多く、本領は発揮されませんでしたが、北総線内はほとんど最高速度の運転で、この特急が大好きになりました。
阿蘇駅からは13時53分発の急行「火の山4号」三角行きで今夜の宿泊地熊本に向う。阿蘇駅では硬券入場券を買おうとすると売り切れだったので、仕方なく最安の初乗り乗車券を購入する。
私の次に切符を買おうとしていた大学生は、次の列車の「三角行き」の表示を見て、「さんかく行きってどこまで行くのですか」と訊いている。駅名の読み方は難しい。「みすみ」と読むのだ。
急行の発車時刻になり、改札でこの切符に入鋏してもらおうとすると、駅員に怪訝な顔をされる。急行列車の改札なのに隣の駅までの切符で乗車しようとしたからだ。別に周遊券を持っていることを示し、事なきを得る。
阿蘇山にはほとんど観光客がいなかったのに、急行火の山4号は満席の状態でやって来た。座れずにボックス席の背もたれの取っ手につかまっていると、座席で居眠りしている学生の頭が、何度も何度も私の手にぶつかってくる。頭がぶつかりそうになると、こぶしを硬くして、襲来に備えた。
窓が曇って、外がよく見えないなか、立野駅の手前のスイッチバックに差し掛かる。スイッチバックは生まれて初めてだ。
結局、私は熊本駅までの1時間を立って過ごした。14時57分熊本駅着。
宮地駅からのバスを降り、ロープウェイ乗り場に向う。ここからは、ロープウェイ、マウントカー、ロープウェイと乗り継いで、阿蘇の大自然を堪能できるようになっている。私は通しの乗車券を買った。850円だ。切符の裏側には東芝のビデオデッキの広告が印刷されている。定価で22万円もする非常に高価なものだ。サイズも大きく、どっしりとした風格がある。
ロープウェイからはゴロゴロした山肌は見えるが、天候のせいで阿蘇の雄大な姿は眺められない。所要時間6分で火口東駅に着いた。火口東駅と言っても、噴火口が間近に見られるわけではない。
この火口東駅からはマウントバスという、溶岩が飛んできても大丈夫な頑丈なバスに乗り換える。雨が降ってきたので、窓からの眺めは物足りなかった。
マウントバスを乗り終え、火口西駅に着く。本当はこの付近を散策する予定だったが、雨が強くなってきたので、それは止めにした。くにさきで一緒だった高校生は、この雨の中どうしているのだろうか。とても気になる。再びロープウェイで阿蘇を下り、阿蘇山西駅に着く。
ここからは13時10分発のバスで阿蘇駅へと向う。昨晩遅くまで起きていた関係でバスの中で居眠りをして、阿蘇駅に着いても寝たままだった。他の客に肩をたたかれ、目を覚ます。
宮地駅には10時37分に到着した。この駅で私は、生まれて初めて硬券の入場券を購入した。鉄道ファンは自分の乗り降りした駅の入場券を記念に購入する風習があったのだ。現在ではこういった厚紙でできた切符はほとんどお目にかかれないが、当時はどの駅でも売っていたのだ。
ここから阿蘇へ行くバスに乗車する。駅前のバス乗り場を10時59分に発車する。乗客は私のほかに、子供だけの3人連れの旅行客、年配の夫婦だけだ。この子供だけの3人連れは、私と同じ年くらいの長男、中学生か小学生高学年の妹と弟で、今思い出しても、相当に旅なれた子供たちだ。 この子たちは昨晩の「くにさき」にも乗車していた。
意外と少ない観光客にびっくりしながら、阿蘇山の東山麓を進む。11時13分、ロープウェイ乗り場に到着した。天候が休息に悪化して、今にも雨が振り出しそうな状況になってきた。
(写真の駅は今から3年前に撮った宮地駅です)
大分駅でうどんを食べた後、大分駅発8時36分発の豊肥本線の急行「火の山2号」に乗る。この急行は、別府駅始発で豊肥本線を経由して博多駅に至るという今ではありえないルートを進む。当時はディーゼル急行全盛の時代で、柔軟な経路を取る列車が多かった。
この列車はグリーン車、指定席車を連結している。今では特急でもグリーン車を連結しない列車が多いのに、当時はこんなローカル急行でもグリーン車が連結されていたのだ。私の座った自由席車は4人掛けのボックス席だが、昨日乗った東海道線の113系とは違い、ボックスの間隔が広い。昨日は窮屈な思いをしたが、今日はそれほどでもない。満席ではなかったが、窓側の席には座れず、二人連れのオバサマと相席になる。
だんだんに客が降り、一人でボックス席を占領するようになった。大分から約2時間で、阿蘇山の東側の入り口宮地駅に着く。大観光地阿蘇の東の玄関口であるから、さぞ大勢の客が下車するのだろうと思っていたが、下車したのは数人だった。私は拍子抜けした。
初めての座席夜行列車では、なかなか寝付けなかった。窓の外を流れる駅名表を見ては、「あー、こんなところに来たのか」と感慨にふける。
関門トンネルを抜け、門司に着く。意外と寂しい駅だ。ここで熊本行き急行の「阿蘇」と切り離される。阿蘇に行くのに「阿蘇」と別れるわけだ。
行橋、中津と進むうちに、夜も明け、だんだんと地元の乗客が増えてきた。向い合わせにしていた座席を元の向きに戻す。
別府からは左手に海を眺めながら進む。朝の日差しがまぶしい。定刻8時06分大分駅着。14時間乗り続けてきた列車から降りる。名残おしい気がする。自転車で阿蘇を目指す高校生とはここで別れる。
大分駅では朝食として、駅のホームでうどんを食べた。値段は170円くらいだった。1000円札を出すと、女性のオバサマ店員にちょっと嫌な顔をされる。これから、阿蘇でバスに乗る予定なので小銭を用意しておきたかったのだ。
うどんのつゆは関西風の薄味で透き通ったもので、関東風の濃いつゆしかしらなかった私はびっくりした。そのときは西日本と東日本の食文化の違いも知らなかったのだ。
急行「くにさき」は定刻に新大阪を出発した。大阪を出るとていねいな車内アナウンスがある。これは長距離列車の儀式のようなものだ。
この車両は客車列車なので非常に静かな走りだ。特に神戸の六甲道駅付近の高架橋はスラブ軌道なので、ほとんど振動がなく、走っているのか停まっているのか、まったく分からない。
駅弁を食べ終え、ぼんやりと夜の景色を眺めていた。すると、私と同じ一人旅の大学生が声をかけてきた。その大学生は、やはり一人旅の別の高校生にも声をかけて、結局、その大学生と高校生と私と3人で、座席を4人掛けに回転させて、話が弾むことになった。
高校生は今度3年生になる人で、私より1年上だった。折りたたみ式のサイクリング用自転車を持ち込んでいて、デッキに置いてあるものを見せてくれた。手回り品切符というのを購入すると自転車を持ち込めるのだ。こういうのを輪行という。大分からは自転車で阿蘇を目指すとのこと。私は列車で阿蘇を目指すと伝えた。
大学生の方は宮崎まで行くようだ。宮崎に実家があるらしく、大阪からフェリーで宮崎に行く場合、海流の関係で行きと帰りで所要時間が異なるのを得意げに語っていた。
その車両には老人のグループ旅行の客もいた。当時の年配の旅行客は背広で旅する人が結構いた。そのグループの人たちも、普段の生活ではスーツを着ることはなさそうな感じの人なのにスーツ姿だった。お酒で酔っ払っていてご機嫌だった。大分で降りて高崎山のサル見物に行くらしく、私たちにサル山がどんなところか、しきりに問いかける。
そんなこんなで、初めての座席夜行列車の夜は思いもかけず楽しく過ぎていった。私は初めての一人旅で上気していたのか饒舌で、夜12時過ぎの広島あたりまでしゃべりまくっていた。高校生が「寝えへんの?」と切り出してきた。彼は明日自転車で阿蘇を目指すから、体力を温存しておきたかったのだ。
新大阪からは夜行急行の「くにさき」に乗る。大分行きだが、途中の門司までは熊本行きの急行「阿蘇」と併結される。この「くにさき」は14系という特急用客車車両が使用されている。客車とは、電車やディーゼルカーのように自分自身では動力を持たず、機関車が牽引するタイプの車両で、揺れが少なく、走行音も静かな車両なのだ。しかも特急用なので、ボックスシートではなく、ふたりずつ前向きに座るタイプだ。そういったデラックス車両なのだが、急行列車に使用されているというお値打ちの車両なのだ。私は九州ワイド周遊券を持っているので、追加料金なしで利用できる。一昼夜で特別な料金なしで、東京から九州に入れるのだ。そういう意味もあってこの列車を利用したのだ。
「くにさき」は5両編成で、そのうち自由席は3両だ。満席で座れなかったらどうしよういう心配をよそに、結局自由席車は私の乗った車両で、15人くらいしか乗っていなかった。1両に80人くらいは乗れるはずなのでがらがらだ。春休みの旅行シーズンでこれなので、結局半年後にはこの列車は廃止されてしまった。
それはともかく、特急用の豪華車両にただで乗れて私はうれしかった。もっとも、この14系車両は簡易リクライニングシートという座席で、人が座席にいる間はリクライニングはするのだが、ストッパーがないので、席を立ち上がるとバーンという大音響とともにリクライニングが戻るという不思議なタイプの座席なのだ。私は事前に鉄道雑誌でその情報を得ていたから驚かなかったが、知らない人だと故障だと勘違いして激怒するだろう。
座席に人がいないときはリクライニングしている必要はないという発想は、ある意味正解であるが、いかにも利用者の利便性を考えない親方日の丸の国鉄らしい発想でもある。そういう構造にしたからといってどれだけコスト削減が図れるのだろう。結局その後、このタイプの車両は順次、通常のリクライニングシートに改造されていった。
米原では3分の待ち合わせで、16時15分発の播州赤穂行き快速電車に乗り換える。湘南色の113系電車だ。だんだん日も傾いてきて、寒々とした景色になってきた。
この列車の車掌は駅の到着アナウンスの時にどの駅でも「ご乗車ありがとうございました。次は○○です」とていねいに放送している。同じ国鉄でも、東京とは大違いだ。
18時04分、新大阪着。今朝東京駅を出たのが7時57分だったので、ほぼ10時間で大阪に到着だ。時間はかかったが、それほど疲労感はない。こつこつと進んできて達成感のようなものがある。時折り車窓から見える新幹線が印象的だった。
新大阪からは夜行急行の「くにさき」に乗る。乗り換え時間が30分弱あったので、この間に駅弁を購入することにしていた。階段を上り、乗り換えコンコースにある駅弁屋さんに急いだ。この駅弁屋は、今でも同じところに位置している。
時刻表の下部には駅弁の紹介が出ていて、新大阪駅にはドライカレー弁当300円というのがあったので、それを買おうと決めていた。他の駅弁に比較して値段も安かった。ところが駅弁売り場に行ってもそんな弁当は売っていなかった。その後だんだん気付くのだが、時刻表に出ている駅弁でも必ずしもすべて販売されているわけではないのだ。結局、どんな駅弁を買ったかは忘れてしまった。今なら必ず駅弁の掛け紙を記録に残すのだが、当時の私はそこまでのテツではなかった。
静岡駅ではわずか2分の乗換えで、浜松行きに乗り換える。同じホームの反対側なので、特に不便はない。
約1時間12分で浜松駅着。当時の浜松駅はまだ地平駅だった。次の列車まで30分以上あり、ちょうどお昼時だったのでホームで立ち食いそばを食べた。最近はホームの駅そばはあまり食べなくなったが、当時は外食にも慣れていなかったので、よく食べたものだ。あっという間に食事を済ませ、駅のベンチで一休みする。
浜松駅13時15分発の快速列車で大垣に向う。この車両は急行型の165系だった。宮脇俊三さんの時刻表2万キロでは、ローカル線の乗客の列車の降り方について、「大都市の乗客のように下車駅が近づくとよろめきながら扉の前へ詰めかけたりはしない。列車が完全に停車してからおもむろに腰をあげる」との記述があったが、この列車でも乗客たちはその記述どおりの下車をしていた。宮脇さんの観察の鋭さに驚くとともに、降りそびれはしないかと、見ているほうがはらはらする。
大垣着、15時32分。2分の待ち時間で米原行きに乗り換える。東海道線に乗っていると、この区間に限らず、遠くの新幹線が音もなく、走り去るのがよく見える。特に関が原付近では、山間に見え隠れする新幹線が展開し、絵になる光景だった。
昭和54年3月28日、九州旅行の旅はスタートした。旅行かばんなど持っていなかったので、愛用のプーマのスポーツバックに着替えや時刻表を詰め込んだ。旅行ガイドはかさばるので、コピーしたものを持ってきた。銀行のキャッシュカードも持っていなかったので、財布に現金をパンパンにいれた。
まず、東京駅発7時57分の東海道線普通列車静岡行きに乗る。当初の計画では、この一本あとの8時12分発に乗る予定だったが、東京駅に早く着いたので、この列車に乗ることになった。
ここから東海道線の普通列車を乗りついで、新大阪まで向うのだ。約10時間で大阪に着くから、旅行前に父が「戦前の急行列車より速いな」と言っていたのを覚えている。
東海道線の列車は今もそうなのだが、東京駅で折り返す際、車内整備を行うので、すぐには乗れない。そんなことも初めての体験だった。
車両は湘南色の113系で、私は進行方向右側のボックス席に座った。定刻にスタートだ。いよいよ九州旅行の第一歩が始まった。
最初のうちは見慣れた国電区間だが、横浜を過ぎるとトンネルがあり、旅の気分が高まってきた。車内アナウンスでは、新幹線の自由席特急券を車内でも販売していると放送している。新幹線に乗り換えれば、あっというまの大阪だが、普通列車を乗り継いでも大阪に到着できるというのが、自分にとってはうれしかった。
熱海からは、私のボックスに小学生の子供をつれたお母さんが乗ってきた。話し好きの人でいろいろ話しかける。「熱海は観光業に従事している親が多いので、熱海の子供は休みの間はどこにも連れて行ってもらえなくてかわいそうだ」という地域の事情を教えてくれる。
このお母さんは、三島駅の先にある新幹線の車両基地を見ては、新幹線が事故で立ち往生していると勘違いしていた。当時の新幹線は故障が多く、そのため線路の保守を日中にも行う半日運休という、今考えると信じられない制度があったのを思い出す。
私の行動について聞かれたが、普通列車を乗り継いで大阪に行くというのも貧乏くさいので「静岡まで行きます」と無難に答えておく。
ボックス席に座り詰めで、ちょっと疲れた頃、静岡駅着。11時23分だった。
今回の旅行では、自分としてはいくつかのポイントを持っていた。その一つが、帰途に乗る寝台特急だった。当時は九州と大阪を結ぶ寝台特急は、明星、彗星、金星など綺羅星のごとく走っていたが、その中でも583系の電車3段式寝台「なは」に乗ってみたいと思っていた。上りのなはは西鹿児島駅を16時50分に発車するのだが、発車時点ではクロスシートの座席が、夜になると寝台にセットされるもので、そのセットのぐあいに興味があったからだ。一つの寝台券で座席と寝台の両方に乗れるお得感もあった。
そのため、指定券の発売開始日である3月1日14時、大宮駅にある旅行センターに出向いた。この日は埼玉県立高校の入試日で学校が休みだったのだ。事前に担任の先生に申し出て用意していた学割証も持って、発売開始時間帯にあわせて行ったのだ。しかし、なはは満席で、取れたのはその次に発車する明星8号だった。
明星8号は西鹿児島を夜発車するので最初から寝台がセットされていて、ちょっと物足りない。しかも上段を希望していたのだが、中途半端な中段でちょっとがっかりだ。しかし、この明星も583系の寝台なので、次点としてはまずまずかもしれない。
数回前まで南紀家族旅行ということで、私の高校入学時の家族旅行についてご紹介しました。その旅行でこの道にすっかりはまってしまった私は、その翌年、昭和54年の3月、九州へ一人旅に出ることになりました。高校2年生になる時の春休みです。
時刻表を読み込み、旅行ガイドを参考に、4泊5日の旅を計画しました。阿蘇、熊本、博多、桜島等を巡る旅で、鉄道旅行一辺倒ではなく、観光要素もふんだんに盛り込んだ旅でした。
初めて、一人旅に出る私に対して、両親は特に止めもせず、承諾してくれました。止めても無駄だと思ったのか、一人の男として認めてくれたのか。
その年のお正月にもらったお年玉を貯めこみ、旅行の資金にしました。
それでは、明日から数回に渡って、そのときの旅行についてご紹介しようと思います。
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